『ほんとうの笑顔』☆出馬幹也公式ブログ」カテゴリーアーカイブ

『あれだけ言っておいたのにどうして?…からの脱却』

私が大手企業や自治体向けの管理職研修などの場で強調することがあります。それは『理解から納得までの距離は遠いですよ』ということです。

他人の理解を得ようとすると人は懸命に説明します。プレゼン資料を練り上げ、質疑応答への対応を入念に準備してプレゼンにも臨むことでしょう。確かに、わかりやすい資料と説明があれば、理解は得られるでしょうし、好評を博すことも可能だと思います。しかし、いかに好評を得たとしても、プレゼンとは他に理解を求めていくまでの場でしかありません。

「あなたの言いたいことは分った」という意味の理解を得るまでがプレゼンの狙うところです。そこからさらに”腹に落として”もらい、自らの意思で主体的に行動してもらう段階、そこまで辿りつくには、さらに相当の時間が要る、つまり距離は遠いと、私は思うのです。

実際、何かの競争入札の場で、各社ごとの提案(プレゼン)がなされ、一定レベル以上の高い評価を受けたとします。そのことだけで採用されるかというと、必ずしもそうとは限りません。

要するに、理解してもらうことと、納得(腹落ち)から具体的に行動に移してもらうまでの、その距離は遠い、と考えざるを得ないのです。

一方で、なぜ私たちは、誰かに何かを説明したとして、すぐそれを行動に移してくれることを期待するのでしょう? 目上からの指示・命令のような場合であればあるほど迅速な行動と結果を要求し、思ったように動かない部下に対して強く叱責したり、ときに非難したりする困った上司すら未だに散見されます。どうしてそのようになってしまうのでしょうか。

私は、『理解と納得までは遠い』ということが忘れられている、或いは気づいているけれどもそれを見ないようにしているのだと思います。

自分の思い通りになるか・ならないかが優先され、相手の気持ちや背後にある事情などを、仕事だという名目のもとで二の次にしてしまう。そのような、自分の成績や責任に目が向き、部下たちが抱えている様々な事情や、人によって異なる理解・納得・行動のスピードを尊重する姿勢に欠けている…、そんなリーダーに対して、果たして人は付いていくでしょうか?

たとえば、理解を得るということのためにも周到な準備が要ります。聴いてくれる人、納得してもらいたいと思う人の立ち位置に立ち、どのような説明であれば受け容れられるか、よりスムーズに理解から共感へ、共感から納得へと繋げてくれるだろうかと考え、内容はもとより、話し方や質問の受け止め方、皆が前向きになれる対話の進め方、等を準備していくのです。

根本原理は一つ、相手をどこまで思いやれるかどうか、ということだと思います。

では、相手を思いやることができる力とは、”スキル”なのでしょうか?私はそうではないと思います。スキルを身に着けていく土台=基盤のようなもの、”心根・信念”のように説明されるものだと思います。

「あれだけ話しておいたのにどうしてやっていないのだ!?」と言い放つ人材はリーダーの適材ではありません。少なくとも人の上にたつ●●長のような役目からは外れるべきです。

世の中の多くの仕事は、人と人とが役割を分担し、強みを出し合い弱みを補完しあって、それぞれが心を込めて成し遂げた仕事を、社会のために一つに編み上げていくようなものであるはずです。物事が理解できただけでは動きません。目指す状態や目的・目標に共感し、自らの強みが活きる、自分なりの貢献方法が具体的にイメージできた瞬間、そこで”腹落ち”が生まれ、行動へと繋がっていくのです。

真のリーダーとは、その一連のプロセスに対し当たり前のように寄り添うことができる人材のことだと思います。一人ひとりのメンバーに対する思いやりの心、皆の力を一つに束ねて社会が求めている価値をいち早く実現していく志。胸に抱いたその志を熱く語る姿に、人々は突き動かされるように、理解から共感、納得から行動を具現化していくのではないでしょうか。

『理解から行動までは遠い』のです。でも人間の多くは、共感できることのために自らの人生をかけて参画したいと思っています。まさしく、私が知る真のリーダーたちは、そのような世の成り立ちを良く分っていて、状況に合わせた行動が選択できる人々であるように思えてなりません。

『自分の可能性を拡げる「自信」の持ち方』

随分とアップデートに時間を要してしまいました。私の仕事の関係上、1年のうちで何回か多忙な時があり、この時期はまさにそうなのです。少し落ち着きを取り戻しましたので、過日より思うところを記してみようと思います。

今日のテーマは「自信の持ち方」ということです。

自分にはまだ経験がたりない、能力が追い付いていない、故に自信などとうてい持つことはできない、というように考える方は少なくないように思います。かくいう私自身も社会人として日の浅い20代のころはそのように考えていたように思います。

様々な経験を経た今、より一層社会で活躍したいと願っておられる若手・中堅の方々に対して申し上げたいのは、「まず自信を持つようにしませんか?」ということです。

なぜそうなのでしょうか。誰に対してもその言葉が当てはまると考えてのことでしょうか。

端的に申せば、順序を逆にしてみましょう、という提案なのです。

十分な能力が身に付いたら自信を持とう、長い経験を積むことができたら自信を持とう…等、多くの人々がそのように考えて(考え過ぎて)おられると思うのです。

どこまでの能力を身につければ自信がつくのか、どの程度の経験であれば大手をふって自信があるといえるのか・・・、そのような基準など、人生の中で実は誰も示してはくれません。

一流のビジネススクールでMBA(経営学修士号)でも取得したら自信を持つことができるのでしょうか。私はそうは思いません。私自身もMBA自体は取得しましたが、クラスメートの顔ぶれを思い返すに、現実社会でそのまま通用するような修了生は多くなかったと断言できます。当然一定のスキルは身につくとしても、人としての”深み”に欠けると申しますか、そもそもの”志”のようなものが感じられずに、ただ頭でっかちの人材を輩出している傾向が多くありました(その部分の育成をスキップしたとしても、MBAは取得できてしまうようなのです)。

”志”から始まる”深み”は、できるかどうかわからない中で自らの内から湧いてくる、未来への希望のようなものが本質なのだと思います。経験が浅くとも、若すぎると感じる年代であったとしても、”志”は持つことができます。要するに、”志”を持とうとするか否か、心の中から湧いてくる、未来への希望に焦点を当てようとするか否か、が重要なのだと思うのです。知識やスキルに偏重した教育の場ではそこに真摯な問いかけが不足してしまうのだと私は思います。

MBAプログラムという”非日常空間”の、対極にあるともいえる”現場経験”を想像してみます。

例えばですが、10年という期間、経験を積むことができたら自信を持ってよいのでしょうか。私は断言できないと思います。なぜなら、経験というものはあくまでも自分の中に蓄積されるものであって、客観的に測定できるものでなく、そこから何を学んだのかという要素によって、重み・深みも大きく変化するからです。

確実に「自信」に繋がる経験があるとすれば、それはお客様からの評価であると思います。「あなたはこれまで難しい場面で一生懸命私たちのために取り組んでくれた。それは大きな安心を与えてくれるものだった。あなたのこれまでの努力と貢献に心から感謝したい…」そのような評価をお客様からいただけたとするなら、それは確かに「自信」を深めるに値することだと思います。

自信を深めるに値する経験や能力・・・それはすべて客観的な評価が介在するものです。MBAプログラムを修了せずとも、日々の実践の中で、お客様や取引先など、社内・組織内とは違う基準で自分の仕事の質を評価いただける方々が居られたとして、高評価が続いたとすればそれは「自信」を深める出来事以外の何物でもありません。

では、そのような経験を経なければ「自信」は持てない・深められないということでしょうか。私はそれも少し違うように思います。

自分に自信を持つ、ということのスタートラインには、自らの可能性に目を向けていくこと、きっと自分はやっていける・頑張れる、とポジティブに信じることがあるはず、と思うのです。

自分の可能性を信じることができない人は、いつまで経っても自分自身がはじめから持ちあわせている良さ(持ち味)を見つけ出すことが困難です。周囲から見れば素晴らしいと思える事でも、自らはとてもそうは思えず、むしろ未熟な(と思える)側面ばかりに目が向いてしまうのです。

それが自分自身の中だけに留まるならそれも良いでしょう。問題なのはそのような人材にはいつまでも笑顔が浮かぶことが無い、ということなのです。常に不足を感じるがゆえに、自分に満足することがない、自分の中にたくさんある良さ(持ち味)を見過ごすが故に、表情が常に厳しいままなのです。”目の奥”に光がなく、自然な笑顔・本当の笑顔がそもそも表れないのです。

果たしてそのような人のまわりに、人が集まってくることがあるのでしょうか。

自分が決めた基準を優先するがあまり、自分自身にも厳しくなり、笑顔に無縁なままで居ることを憶えた人材。そんな人の傍に居たい・一緒に働きたい、と思う人が世の中にどれだけ居るでしょうか。息がつまるところに居たいと思う人など、居ないのではないでしょうか?

自分がもともと持ちあわせている可能性を信じましょう。そこから始めましょう。なぜなら、自分には他の人にない良いところがあるからです。他の人材が得意でない何かを持っているからです。

他の人の得意なところを認め、敬い、学びつつ、そのような人とのチームワークの中で自分が持つ持ち味を上手く活かしていくことができるなら、それはまさしく最高ですよね!

そうやって人生は成り立っているのだと私は思います。誰か一人の力で問題が解決し、未来が創られていくのではありません。各自が自分の持ち味を出し合って助け合い、その連携協業の中で大きな何かを成し遂げていくのです。眉間にしわを寄せ、自己満足に浸る余裕があるのであれば、外に出て、人と触れ合い、自分が貢献できることをしましょう。自分より優れたところを持つ人を思いきり褒めてあげましょう。そんな瞬間から何が生まれ始めるのではないかと、私は思います。

そして、結局のところ気づくのですね。自分の「自信」などというものは、そのような日々の中でいつの間にか身に付き、深められていくものなのだ!ということに…。

『経営幹部合宿の場でいつも考えること』

私の仕事の1つに、大きな会社の幹部層を集めて、合宿形式で語り合う場に呼ばれる、ということがあります。いわゆる役員・部長合宿のファシリテータを頼まれる、ということなのですが、20年前ぐらいであればファシリテーションに徹すれば良かったところを、余裕がなくなっている今では、戦略議論が詰まった場合はコンサルタントとして、悩み深き参加者に対してはカウンセラーとして、方向性が定まり、後押しが求められる段階に入ったらエグゼクティブコーチとして様々な役割を演じることが求められます。

そのような活動をしていて考えさせられることがあり、ここではそれを少し記したいと思います。

大手企業の役員や部長という幹部とはどのような人々なのでしょうか。一般の社員層からすると、高い給料をもらい、秘書がついていろいろなことを指示命令できる、夢のような立場だなと思う方も少なくないかもしれません。いや、会議会議の連続で、自分の自由になる時間などほとんどないのではないか、という側面が気になる方もおられるでしょう。そのいずれも間違っていない、確かにそのような側面はあるでしょうね。

私が記したいのは…、「幹部は皆、自分自身のことが良くわからなくなっている」ということです。

もちろん人によって”わからなさ”の度合いは違います。少しわからなくなっている人もいれば、大混乱している人も居られます。しかし、おしなべて全員なんらかの形で自分自身を見失っている人だと私には思えるのですね。

では、どのようにわからなくなっている・見失っているのでしょうか。

① 全体を考えられると思ったのに、部分のことばかり責任を押し付けられる

あくまで仕方がないのですが、部長であっても役員であっても、”担当”領域や機能があります。それがないのは社長だけ。経営層といっても結局役割を分担している一人ですから、全体を担う感覚が薄れるのは仕方がないこと、ともいえます。しかし、それに拍車をかけるのが、世代間・上下意識の問題です。

つまり、社長や副社長からすれば今の執行役員や部長クラスは自分が課長だったころの平社員、部長時代の係長です。ということは、任せたことをどれだけきちんとやってくれるのか、が肌感覚として残っており、社長がそうであれば、部下としての役員・部長も、昔の感覚を思い出してそのように立ち居ふるまってしまうことになります。いつまでたっても全体最適思考など持ち得るわけがないですね。

そのわりに、後継者を誰にするかを考えている瞬間の社長の目線からすると、急にそれらの役員・部長の姿が小さく思え、「皆もっと全体のことを考えてくれ!」と苦言を口にしたくなる…? それは社長ご自身にまず問題があるのでは…?

② 自分の自由になることが増えると思っていたら、全くそうではなかった

スケジュールを自分自身で決められなくなることにはほぼ全員がびっくりされるようです。自分が参加したことのある会議だけでなく、社内にはこんなにも様々な会議体があるのか、と驚くことはまだ序の口で、その事前交渉の場としてのミーティングや面談の要請は矢継ぎ早に入ってきて、どんどん考える時間や物事を書き記す時間がなくなってくるという実態に目が回る新任役員・部長は思いのほか多いと思われます。

部下からすると意見や決裁を求めたいと思っても役員や部長が席にいないことがほとんどで、スピーディな仕事を阻害する要因にしか見えなくなってくるという弊害もあります。よしんば、多忙な時間の合間を縫って本人を捕まえられたとしても、次の会議のことを心配して意識ここにあらず・実のある助言などとても貰えない、という経験は多くのスタッフが経験されていることでしょう。

組織として観た場合、このような情景が当たり前になっていること自体が大変な問題です。

③ 全社経営に近づけない一方で、現場からも遠くなり、何も見えなくなった

現場の動きは早く、少し離れていると自分の出身母体のこともよくわからなくなります。むしろわかるはずと思っていたことがわからなくなるショックの方が大きく、もはや自分は別の風景を観ながら過ごさなければならないのだという覚悟を迫られ、愕然とする方が居られるようです。

担当者から課長になったあたりでそのような覚悟に対する決着をつけ、プレーヤーであった自分を懐かしむことに時間をかけていればそのようなことは無いのでしょうが、多くの場合、役員や部長までかけあがってきたこれまでの方々の経歴からすれば、スーパープレーヤーとして名をはせ、誰よりも貢献してきた業績の高さ=プレーヤーとしての勲章だけが誇りであった方も多いため、いよいよ(現場から遠くなってしまったことを発端とする)”やり場のないむなしさ”は広がってしまうのだろうと思います。

役員合宿やコーチングなどの場でご自身のことがよくわからなくなっている・混乱している、という姿を多くみるにつけ、この経済社会が持ち合わせている目に見えない虚無感、というものを私は感じてしまいます。誰もが一生懸命であろうとしているのに、良かれと思って頑張っているのに、どうしてむなしさが生まれてしまうのだろうか…、私自身は微力な存在ですけれど、何とかしたいと思ってしまいます。

この場の結論として記しますが、私は次のようなことを企業経営者・幹部層に対して粘り強く伝え、訴えていきたいと思います。

「課長から部長、部長から役員の節目で、それまでを振り返り、しっかりとスイッチを切り替えて、新しい役割と責任に向けて覚悟を定めていきましょう。担当を持っているから、といってそれに拘りすぎるのではなく、まず社長の目線に立つ努力をし、そこから全体を俯瞰してみて、課題を認識してから自分自身の担当のことを考えましょう。現場を変えなければ組織は変わりませんが、もはや役員・部長としての自分は現場のこと・そこで起こっている現実のことを深くはわかりません。それは仕方がないことです。それはそれで覚悟をし、何を目指したいかを示し、対話で分り合ったあとは、そこに到達する具体的な方策については部下に任せていきましょう。結果の責任は自分がとる、というところだけは明確にし、自分は部下が見切れていない少し先のこと、横断的なこと、に気を配り、部下の考えや動きを助けることに徹していくようにしましょう。それが一番です。それが物事を一番うまく進めていって成果を生める最善最良の道です。同時に、そうすることでご自身の心の中に余裕のようなものが生まれ、社長とも、部下とも、同僚とも、笑顔で接していくことができるようになるでしょう!」

『自分の机でする仕事の大半は”作業”』

創造力を高めたい、という希望は誰にもありますね。とくに、これからの仕事
人生を長く展望する若手・中堅の皆さんにとっては(今騒がれている英語力
などよりも更に)キャリアプラン上の死活問題とも言えるかもしれません。

そのために何をすればよいのでしょうか。書店に立ち寄り、ビジネス書を手
にとって、読むだけで学べそうなものを探してみますか? それともビジネス
スキルを鍛えてくれそうなスクールに入って、様々に提示される課題に対処し
解法の基本を学んでいくべきでしょうか?

どれにも意味はあると思います。自分が望むのであれば、ということです。
望むものは得ることができますし、それが何であれ、自分自身が必要として
いるものは自分自身が一番わかっているはず、という面もあるからですね。
使えそうな知識・スキルにどういったものがあるのか、をまず概観するという
意味でも読書は最も手軽な手段であることは明白です。

しかし十分に注意すべきところもあります。それは、学んだ・修得したはず
の知識やスキルは、職場での仕事を始めとする日常生活の中で積極的に
使ってみないと本当には身についていくことはない、ということです。

資料作りの場面を考えてみましょう。表計算を応用して、見やすく、ポイント
が瞬時に提示できるものを作成することには、多くの知識・スキルが必要に
なります。それを教えてくれるスクールもあれば、詳しく解説してくれる書籍
もあるでしょう。それらから得られる知識・スキルを駆使して、内外の関係者
が求める品質の資料がつくれたな、と思える瞬間は一つの大きな達成感を生む
ものだと思います。

けれども、私がここで提起したい問題は、それを超えたところにあります。

仕事は資料だけでなりたっているわけではない、ということです。資料自体
は、ある人がある人(人々)に対して、考えていることを示す手段であって
それ以上のものではありません。良い資料に意味があることは言うまでも
ないことですが、良い資料があれば仕事がすべて完結していくか、という点
では、まさしくそうではないということです。

自分の机で行う仕事の大半は資料作成やデータ入力、情報検索などに分類
することができます。これまでは自分の机に居るかどうかが上司にとっては
その人が仕事をしているかどうかの大きな判断基準でありました。その意味
で言えば、自分の机に座り、PCを使って何かをしていることが仕事なので
はないか、という”思い込み”を皆がつくり上げてしまってきたことも否めな
い事実、と思います(もちろんこれらは事務職中心の例え話であって、店頭
での接客や販売、製造現場や設備保守等の職域には当てはまりませんが)。

では、自分の机でやっていること自体は、本当に”仕事をしている”という
ことなのでしょうか。私はそこに、一つの落とし穴を見てしまうのです。

仕事には、大きく分けて創造力を必要とするものと、必要としないものが
あります。机で行う仕事の大半は、後者になるでしょう。

「何~?資料作成に創造力は要らないというのか? 白紙に絵を描いたり、
文章を作成したりすること自体、まさに創造力が必要ではないのか?」と
いう声もあると思います。しかし、そのような資料作成で必要になるのは
”制作力”であって、”創造力”ではないと私は思うのです。

ある明確なイメージがあってそれに肉付けをしたり、編集したりすること
が”制作力”。それはスキルなので、人にも教えることができます。

しかし、最初に必要になる”明確なイメージ”なるものをどう持てるか、と
いう点については、創造力に関することであって、スキルだけとは言い
づらい情報感度の有無を含んでいる、と私は思います。

では(このケースで、成果の質を左右する一番重要な能力発揮とも思え
る)創造力とは、どのように身に着けていくことができるのでしょうか。
私の考えは、実に簡単です。

「歩いて、見て回りましょう、語り合いましょう。そうすればきっと貴方
の仕事に必要な創造力はいつの間にか身についていきますよ!」

(純粋な息抜きを除いて)机を離れ、歩こうとする場合、当然ながら仕事
に全く無関係なところには足が向かいません。関係部署に出向き、何気
なく見て回り(いわゆる観察をし)何とはなしに思い浮かんだことを念頭
に、関係者に声をかけてみる、相手が応じてくれれば少し語り合う、その
ときには無理でも、別に会って話す約束をする、等が進められます。

ここに創造力を発揮する、修得するポイントがあると私は思います。

今準備している資料が的を得たものになっているのか、的外れなことを
中心に、一生懸命に作業をしているだけではないのか、等が頭をよぎるの
です。机に居たときには考えなかったことや、見ようとしていなかった
ことが見えてくる、そしてそれが、上記の”イメージ”であるとすれば、
机にかじりついて行う仕事こそいつの間にか偏ったもので進めてしまう
恐れを含んでいる、ということになるのではないでしょうか。

正にこれだ!と自他共に感じられる適切な”イメージ”を持つことができ
て始めて、資料作成は上手くいく前提が整います。そこからは具体的な
スキルとしての制作力が良し悪し・出来栄えを左右することになります。
それらを併せ持つことで、仕事上で必要な能力を獲得し、発揮していく、
ということが整うのではないか、と私は考えます。

机に居る時間が長くなったなと思ったら、歩いて仕事場の関係先を見て
回りましょう。関係者が居るところに出向いて、何気ない対話をしてみま
しょう。その人の職場がどんな雰囲気になっているか、どんな内容のこと
が優先度の高いものになっているのか、を観察してみましょう。

そこで感じるものすべて、見ること、話すこと、感じること、のすべて
を元に、今自分がやっている”仕事”が、本当に関係先やお客様の側から
見て意味のあるものになっているのか、このまま続けて大丈夫なのかを
考え直してみましょう。大丈夫だ!と確信が持てれば、資料作成の速度
も上がるでしょう。新たに気づいた!となれば、作成途上にある資料を
つくり直そうとする勇気までも湧くかもしれません。

机で行う仕事の大半は”作業”なのだと考えたほうが良いと思います。
それをもって仕事をしている、と判断することは止めたほうが良い、と
思います。大切にすべきは、観察や対話から得られる明確なイメージと
自分自身の仕事を”客観視”することの組み合わせ、です。それらを上手
くバランスしていける人材が、仕事の出来る人材へと自分自身を成長
させていけるのだろう、と私は思いますね。

『ほんとうの笑顔を!~私の願い~』

人は喜怒哀楽を感じる自由を持っています。喜びを素直に表したくなる
ときがありますし、何かに腹が立てば怒りたくなり、また、哀しみにも
浸りたくなる瞬間も、無性に楽しくて、思わず!笑顔になることもあり
ましょう。それらはすべてとても人間らしいことであって、生きてるな
という実感があるものですよね。

しかし、私たちの日常を考えてみると、その素直な表現ができない場所
が幾つかあるように思います。中でもよい大人にとって一番身近であり、
一番病んでいるようにも思えるところ。それは、おそらく「職場」なの
ではないかと思います。

いえいえ、自分が通っている「職場」は、喜怒哀楽など素直に表現でき
ますよ、と語る方は幸せだと思います。月曜の朝、勇んで行きたくなる
程ですか?と問われると、いやそこまでではないですが…でも確かに、
嫌ではないですよねと話す、そんな感じの方はいらっしゃると思います
し、きっと幸せな日々を送っておられることでしょう。

では、何が「職場」に”差”を生むのでしょうか。何が喜怒哀楽を素直に
表現でき、思わず笑顔になれるような場をつくっていくのでしょうか。
私はそれが「人材マネジメント」であると思うのです。

人を笑顔にできる技術、ほんとうの笑顔をつくる技術。私が定義する
「人材マネジメント」とは人の”ほんとうの笑顔”をつくるものです。

ではその「人材マネジメント」とはどのようなものか、発想の原点だけ
ですが、以下に少し記してみたいと思います。

++++

人は生きている間でさまざまな問題に出会い、解決への努力をしつつ、
さらなる難儀に日々遭遇していくものです。「職場」という人の集まり
においては、それらが複雑に絡み合い、一筋縄ではいかない日々が続く
ものだとも思います。

そのような場所にあって、人の”笑顔”をつくっていけるもの。それは、
以下のようなものなのではないか、と私は思っています。

  1.自分達が取り組むに値する、意味のある目標
  2.進んでやっていきたくなる、意味のある苦労
  3.自分達の成長機会としての、意味のある失敗
  4.自分達の未来を信じられる、意味のある成功
  5.社会・顧客の喜びを感じる、意味のある成果

何に取り組むにおいても、たしかにそうだな、と思える「意味づけ」が
あることで人は、元気にも、前向きにもなれます。

自分達にとって「意味を感じる何か」があるとき、それに共感できる
とき人は「もう一頑張りしてみよう」と思うでしょう。そのような人
の顔には”笑顔”すら浮かんでいるのではないか、「ほんとうの笑顔」
とはそのようなものなのではないか、と私は思うのですね。

ではそのような「意味づけ」は誰によってなされるのでしょうか。
それはその職場の「長=リーダー」に他なりません。

リーダーの言葉・姿勢・所作などが一体となって、職場の状況や対処
する物事を「意味づけ」ていくのです。

もちろんそのリーダー自身の視野が狭く、言葉が借り物で、明らかに
私心ありきで、誰からも尊敬されない価値観の持ち主であるとすれば
「意味づけ」られることにメンバーは納得も共感もできないはずです。
リーダーだけが知らぬ間に浮き上がり、メンバーから信頼されること
も、メンバーが喜怒哀楽を素直に表現することもなく、負のサイクル
で職場を疲弊させていくことでしょう。

私は経営教育という自分自身の専門境域で、共感を育む「意味づけ」
のできる人材(リーダー)を育てることにコミットしています。

★ 視点高く視野が広く、自らの言葉で語り、私心からではなく公の
使命感をもとに、何ごとにおいても本質的で、人の共感を喚起しうる
「意味づけ」ができる人材を、この世の中に多く輩出していきたい。

★ 望ましい人材マネジメントはそのようなリーダーによってなされ
ていくと信じ、”ほんとうの笑顔”を社会全体に多くの組織に拡げる核
をつくっていきたい。

自らが生業として取り組む「官民組織における幹部向教育やコンサル
ティング」或いは、自治体の変革を狙いとした「早稲田大学マニフェ
スト研究所・人材マネジメント部会」における同志との活動を通じ、
私は自分にできるすべてのことで貢献していきたいと思います。

『”やらされ感”の払しょく』

民間企業、あるいは自治体組織においても、”やらされ感”の払しょくというテーマ
をよく耳にします。たしかに”やらされ感”でする仕事は楽しくありませんし、その
結果や成果も、おそらくは”適当”なレベルに留まるのではないか、と思われます。
では、”やらされ感”と無縁になっていくためには、どうすればよいのでしょうか。

私は結局、スピードを上げること、に尽きるのではないかと思うのですね。

取り組まなければならない事務作業や、本心から望んでいない、上からの指示・命令
で始めていく業務など、”やらされ感”に陥りがちな仕事やきっかけはヤマのように
あります。しかし、それをゆっくり取りかかっていくのか、それこそ何よりも早めに
取りかかっていくのか、によって大きな違いが生まれると思うのです。

もちろん、ただでさえ多忙なときに、新しく押し付けられた仕事に取りかかれる余裕
がまず無いのだ、ということはありますね。そうやってどんどん自分の仕事のリスト
が増大していくこと自体が嫌で嫌でしょうがない!という方も少なくないでしょう。

しかし、そここそが考えどころではないか、と私は思います。

嫌だな、と思えることにまず取り掛かり、半分、否、三分の一でも終わらせてしまう
のです。そこの部分のスピードを強く意識し、できるだけ早く半分近くまで終了させ
てしまうこと。それが私が意図する、スピードを上げること、なのです。

半分まで終わらせることの、何がメリットだと言えるのでしょうか。私は少なくとも
3つのメリットが実感できる、と思っています。

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1.あとどれぐらいの時間で完了させることができるか、が手にとるように判る

2.自分がこれをやり続けるべきか、他の人を巻き込んで続けていくべきかが判る

3.指示された上司に、改めて経過を説明し、他の優先度を下げてでも続けるべきか
  の判断を、冷静に仰ぐことができる
======

要するに、途中まで自分の手でやり終えることによって、その仕事を”自分のもの”
にすることができる、ということなのですね。

何もやっていない段階の”混乱・困惑”状態ではなく、自分のものとして考えること
ができるようになる、ということです。周囲や上司までを意識に入れながら、その先
どう立ち居ふるまうことが、自分自身も職場全体も、そして自分たちのお客さまにも
望ましい状態をつくることができるのか、を冷静に判断していくことができるように
なる、と私は考えるのです。

やってみて初めて見えてくるものも多いと言えます。つまらない、と見えていた仕事
が意外に面白いと思えたり、自分には向いていないなと思えた仕事が、自らの意外な
適性を発見する機会を与えてくれたり。

何にせよ、やってみて初めてわかることの方が、むしろ多いのではないでしょうか。

仕事は次から次に出てきます。それに押し流されそうになる気持ちは誰にもあるもの
だと思います。しかし、そこで発想を変え、スピードを上げて”半分”取り組んでみ
るということで、見えてくるものがあるのではないか、と私は思うのです。

と、ここで重大な疑問がひとつ提起されるでしょう。「そもそも、取り掛かりと半分
終わらせるまでのスピードを上げられる人は、”やらされ感”など最初から感じない
人なのではないか?」

まさにその通り、と私は思います。要するに、”やらされ感”とは、”一歩前に出る
勇気があるかないか”だけが問題であり、そこに山のような理屈やロジックは存在し
ない、のです。自分自身が(勝手に!)作り上げる妄想のようなプレッシャーを前に
して、心が立ちすくんでしまう状態が、”やらされ感”の本質であり、結局自分自身
で創造したものでしかなく、やはり自分自身で超越していかねばならないこと、なの
だと思うのです。

人間には恐怖心がありますし、何ごとをもネガティブに捉えるクセも相当強いですね。
それを乗り越え、一歩前に出てやってみて、経験をもとに後でしっかり考えるという
順序は、なかなか難しい習慣づけなのだろうと思います。

しかし、自分自身も、職場も、お客さまもすべてが望ましい状態に到達していくため
の”突破口”はそこにしかありません。

組織の変革は、一人ひとりの心の中で、ちょっとだけの勇気を持つことから始まって
いくのだと私は確信します。スピードを上げる、という別の表現をした理由は、その
言葉のほうが余計な思考を交えず、身体のほうから自然と動きが始まっていくだろう
という経験知から、です。皆さん、よろしければお試しください。

『会議&番頭さん』

組織を変えたいと思っておられる方に向けて何が発信したいこと
なのか、ということを考えてみました。まず思い浮かぶことは、
会議について、ということでした。

質が高い会議、素晴らしい会議がなされている組織の風景を私が
実際に見聞きしてきた事例で整理すると以下のようになります。

=====
① 参加者が、開催予定時間に、余裕を持って現れる

② 参加者が、狙いを知り、事前に資料を読んできている

③ 主催者が、笑顔で挨拶し、スムーズに議事に導入する

④ 説明者が、簡潔明瞭に話を終え、意見交換に時間を割く

⑤ 参加者が、自論を明確に、その場に合わせた話ぶりで示す

⑥ 決裁者が、経過を整理し、自分の判断を、根拠を付けて示す

⑦ 主催者が、結論と次回までの段取りをその場ですぐ確認する
=====

①~⑦が苦もなくできる組織、そこには何があるのでしょうか。
結論から申せば、素晴らしい番頭さんが居る、ということです。

総務部長だったり、企画課長だったりしますが、何かを取りまと
めていかねばならない場面で活躍される裏方の存在。さらにその
人材の資質や能力が高く、視野が広く、先を読む力があればある
だけ、その組織は効果的に運営されていくのですね。

会議とは、組織としての意思決定を行う公式の場のことですが、
そもそも、どの様な会議を開くのか、何を決めるのか、誰の参加
を求めるのか、決定権を持つのは誰なのか、などについては多く
の場合、自分達で決めていかねばなりません。

本来であれば、経営者自らがその経過や関連する課題の重要性を
ふまえ、深く考えて決定すべきでしょう。しかし世の多くの組織
では、それを”番頭さん”に任せます。経営者が外向きに動かざ
るを得ない多忙な中で、素晴らしい番頭さんが居れば、会議等を
うまく設定し、適正に運用を進めていってくれる、というわけで
すが、もしそうでなければ逆の事態、すなわち、意思決定の停滞
や混乱を生んでしまう、というわけです。

誰も正解を知らない、次の一手が読みづらい時代になりました。
衆知を集めてスピーディに意思決定する、状況に合わせ、迅速に
方向を転換する、そのような姿勢が一層求められます。

組織を蘇らせていく上での鍵とは確実に、会議をめぐる運営の
在り方にあるといえますし、それを取り仕切る”番頭さん”の
力量に依存することは大きいと、私は日々実感を強めています。

皆さんも是非、ご自身が所属されている組織の会議とその運営
方法について、見つめ直してみてください。いろいろな実態が
浮彫になる、と思いますよ。

『組織の医者』

私にとって難しいことの一つに、自分がやっている仕事をわかってもらう、ということがある。

人事コンサルタントというのが一番近いと思える瞬間もあれば、大手民間企業を中心とした経営幹部向けのコーチング、いわゆるエグゼクティブコーチだな、と確信をもつ瞬間もある。それらをくくってしまえば、要するに「経営コンサルタント」なのだろうが、我が国の経済社会環境の中で手垢がついた感じの、理論先行型の「経営コンサルタント」とは同類にされたくない…という思いもかなり強い。

たしか小学生4年生の頃だったように思うが、よくある親子の会話のごとく、将来なりたい社会人像を母親に問われたことを思い出す。

母からは「お医者さん?それとも学校の先生?」と矢継ぎ早の質問あり。算数が苦手な自分に医者は無いだろう…等と考えつつ、なんとなく私の脳裏をよぎったのは(臨床心理)カウンセラーという職だった。家計困窮のために大学に進めなかった母が、近所の生涯学習センターに通ってちょうど学んでいた心理学の教科書をちらちら横目で眺めては、勝手にイメージを膨らませていたからだ。しかし、次の瞬間母親が「じゃあカウンセラーかな?」と問うたとき、私の中に別の、しかし明確なフレーズが浮かんだ。

「僕は会社の医者になる」

母親は少し面食らった顔で「へえー、でもどうして会社なの?」と返してくる。

「だってカウンセラーだと目の前の人しか救えないでしょ。その人を含めて、たくさんの人を助けてあげられるとしたら、その人が働いてる会社とかを治してあげればいいんじゃない?」と私。

かなりマセている返答に、母はそれ以上突っ込むのを諦め、「なるほどねー」と一言。そこで対話は終了。

それから約40年が経過し、今自分がやっている仕事はどうか。まさに「会社・組織の医者」なのだろうと思う。強くイメージしたことはかならず実現する、ということを説く先生方は少なくないが、いつの間にかそのとおりになってきているなあと思う。不思議、まさに不思議。

実は会社・組織を「治す」も「救う」もできない(本当に治せ・救えるのは経営者のみ)のだが、「癒す」ことはできているのではないか、と近年感じている。医者とは言えなくとも、組織カウンセラーという職には近づけているのかもしれない。

私が今やっていることが”士業”になるわけでもなく、組織カウンセラーです、と名乗っても怪訝な顔を今はされるだけだろう。自分の仕事を説明しづらい状況は当面変わらないかもしれない。しかし、子供のときの明確な未来イメージを今このように実践できていることを幸せなことだと思う。

長きにわたる人生を目の前にされた若き人々には是非、自分の心の内側から湧き出てくるイメージを、抑え込むことなくそのまま温め、持ち続けていってほしい、と願う。

ブログを始めたいと思います(部会長・出馬)

皆さん、こんにちは!部会長の出馬(いずま)です。すでにお世話になっている皆さん、或いは、まだご面識のない、これからお仲間になっていかれるであろう皆さん!本日オープンのこのブログ、どうぞよろしくお願いいたします。

あまり肩のこらない話でありながら、何かが少し心に残っていく、そんな切り口で、週一程度更新していきたく思っています。時々訪れていただけると嬉しいですね。

この部会ではなかなか私自身のことや、コンサルタント、エグゼクティブコーチとして経験してきたことなどをお話する時間がありません。このブログではそんなことも交えながら、より部会が目指すことを身近に感じていただけるようにしたいと思います。

また、このブログは私だけに限定したスペースではありません。いろいろな経験をお持ちの、他の幹事団の皆さんにも随時ご登場いただこうと考えております。

これからの更新をぜひ楽しみにしてください。 まずはご挨拶まで。出馬でした。